Hokuto-CRAFT's BLOG 北斗クラフトのブログ

【感謝と勇気】を使命に掲げる理由(わけ)

こんにちは!「どうせ私の言うことなんか誰もわかってくれない・・」とあきらめかけていた方に、「話しやすい」と言われる「女性ひとりでも怖くない自動車整備工場」の中西和則です。


 私は、「お前をそんな風に育てた覚えはない」と父に言われ続け、いつの間にか感謝の心を閉ざし人と深く関わることに臆病な人間になっていました。
そんな私が様々な節目に受けた恩に気付き、感謝する心と人と関わる勇気の大切さを私の使命に掲げるようになりました。

なぜ私が【感謝と勇気】を使命に掲げるのかその理由(わけ)を聴いていただけますか?

 私は昭和30年3月寒河江市に農家の長男として生まれました。
兄弟は姉と弟の3人です。

小学生の頃
運動が苦手で、特に体育のソフトボールの時間は大嫌いでした。

その頃、放課後に長縄飛びが流行っていました。
クラスのほぼ全員が長縄飛びで遊ぶのがいつもの放課後でした。

私はグルグル回る縄に入るタイミングがわからず、長縄飛びの輪に入れないでいました。

そんな時、クラスの人気者安孫子君が縄に入るコツを教えてくれた事で長縄飛びが大好きになりました。(そのコツは、右折するときや車の列に割り込むタイミングに活かされてます)

 小学6年生の時、母が自動車の免許を取るため自動車学校に通い始め、教科書を私に見せてくれました。
当時は”構造”という教科書があって、エンジンの仕組みやクルマの構造がが書いてありました。戦時中尋常小学校しか出ていなかった母は、自動車学校が楽しくて仕方なかったと言います。
とりわけ、構造がとても面白かったといい、今でもデフやミッションの役割や構造を覚えているほどです。

何故かエンジンに強く惹かれた小学生の私は、母に頼んで使い終わったその教科書をもらい、読みふけるうちにエンジンの仕組みがすっかり頭の中に入ってしまいました。

父は教員の資格を持ち、冬期間だけ分校の先生をしていました。そのころ、物知りで厳格な父を私は誇りに思ってました。
父に褒めてもらいたくて、それなりに勉強も頑張ったのです。

中学校へ入学して少し経った頃のことです。
初めての学年全体のテストがあり、成績は・・・良くありませんでした。

テストも終わりホッとしたある日、小遣いを貯めて買ったバトミントンで友達と庭で遊んでいたときの事です。
成績表を見て激怒した父は、私を殴りラケットを目の前で叩き壊し捨ててしまいました。

悔しくて悔しくて、涙がこぼれてきました。

勉強をしなかった私も悪かったかもしれませんが、
問答無用の仕打ちをどうしても許すことができませんでした。
それ以来、父に心を開くことを止めました。

年齢が上がるにつれ、父の言動はちぐはぐで、厳格だと思っていたのはタダの自己中だったのだとわかり、いやな面ばかりが見えるようになりました。

父が右と言えば左、前と言えば後、ことごとく父に反発するようになりました。

『父の言いなりにだけはならない!』

それが私の行動原理でした。
何度も殴られ鼻血を流したことも1度や2度ではありません。

暗黒の中学時代でした。
クラブ活動も長続きせず、剣道部、工作部、陸上部、郷土クラブなど転々とし、結局なんだか訳のわからない中途半端な3年間を過ごしてしまいました。

『寒河江高校へ行け!』小さい頃から言われ続けた私は、父の意に逆らって工業高校へ行くことにしました。(成績も追いつかなかったのですが)

父とはいさかいが絶えず
事あるごとに

『お前をそんな人間に育てた覚えはない』と、

罵声を浴びせ続けられました。
母は、そんな私と父との間に立ってオロオロするばかりでした。

中学時代ブラブラ過ごした経験から
充実した高校生活を送りたい・・との想いで
高校に入ったら、卓球部かブラスバンド部に入ると初めから決めていました。

そして、入学と同時に卓球部に入ったのです。
盃山までのランニングのあと新入部員が集められ、「次の日曜日、坊主にしてくること」と言い渡されました。
急に嫌気がさし、あっさりと辞めてしまったのです。

頭から命令されることに、過敏になっていたような気がします。

翌日退部届けを出し、その足でブラスバンド部に入部しました。
ブラスバンド部は性に合ってたのか、後に人生の友になっていきました。


高校2年になりバイクの免許を取った私は、バイクの魅力に取り付かれ、高校の3年間は勉学そっちのけでブラスバンドとバイク漬けの日々を送りました。

バイクは乗ることも好きでしたが、
それと同じぐらい、いじることも好きでした。

今考えると、高校を卒業する頃バイクは原形をとどめないほど変わり果てていました(>_<)
溶接だけは近所の鍛冶屋さんにお願いして、あとは全部手作りです。
高校生の仕事なので、今思えば雑な仕事ですが。


そして「将来はバイクの仕事をしたい・・」と考え始めていました

いよいよ進路を決める時になり、両親に「バイクのホンダに行く」と告げました。ホンダとなれば、県外です。

両親は大反対でした。
長男なんだから、地元へ居てくれ・・と懇願されました。

そして、この辺は雪が降るのでバイクの仕事は大変じゃないか・・どうしてもと言うなら、同じ乗物で四輪車ではダメか?

そんな事から、自動車整備専門の短大へ行くことになったのです。
初めは、四輪車なんて全然興味が湧かなかったのですがいざ自動車の勉強をやり始めると、いつの間にかのめり込むように好きになって行ったのです。

学友と自動車(整備)談義に夢中になって夜を明かした事が幾度もありました。初めて親元を離れた事もあり、楽しくて楽しくて、ほんとに楽しい学生生活を満喫しました。

就職を決める時期になりL型エンジンと独立懸架の、山形日産に入社する事にしました。
2級整備士の国家資格をひっさげ、意気揚々と入社すると、待っていた配属先は、なんと・・新車の営業でした。

イキナリ、やる気を無くしてしまい営業成績はいつも最下位でした。

そんなある日事件が起きました。
営業でお客さんから罵声を浴びせられた事をキッカケに、売り込む事に怖症を感じるようになってしまったのです。

お客さんと商談することが恐ろしくなり1年と少しで逃げ出すようにデイラーを辞めてしまったのです。

その後、地元でたまたま募集していた、下着製造工場に入社する事になりました。

そこは、時間から時間まで身体を動かす仕事で、元々手先が器用だった私はプレッシャーを感じる事もなく居心地の良い職場でした。

仲の良い友達も出来て楽しい生活を送っておりました。

そんな平和な生活に少し物足りなさを感じるようになった頃、運命の電話が鳴ったのです。

「中西、お前・・整備すっだいて言ってだけね! 俺んどごさ来ねが?」

日産時代にお世話になった、整備の係長からのお誘いでした。

係長が支店の工場長へ栄転されたおり、私を誘ってくれたのでした。

何の迷いもなく、「お願いします!」と叫んでました。

そこで晴れて整備士人生をスタートする事になったのです。
大好きなクルマのメカに触れることで毎日が楽しくて仕方ありませんでした。

でも、そんな楽しい日々も長くは続きませんでした。

次第に、大きな組織の中での1個の歯車のような仕事と人間関係に息苦しさを感じ辞めてしまいました。

その後外車の整備に憧れ、外車の会社へ入社したのですが、そこでも社長ともめて、たった1年で辞めてしまいました。

外車整備を辞めて寒河江でブラブラしている時、地元の同級生だった整備工場の息子から拾われたのです。

そこでは、好きな整備を好きなようにする事が許されました。

給料はあまり良くはありませんでしたが、何より好きなように仕事ができる喜びは何物にも代え難いことだったのです。

ですがそんな日々も、またもや長くは続かなかったのです。

ある日、社長(同級生の父親)に呼ばれました。

「独立してくれ!」

まったく予想もしなかった展開です。
整備工場を手放すことにしたから息子(同級生)と一緒に親会社から分離独立してくれ・・と言うのです。

パタパタっと話しが決まってしまったのは、妻が第一子を出産するため入院している最中でした。
こんな大事な事を相談もなしに決めてしまいました。

結婚するとき、妻が商売人だけはイヤ(嫁がない)と言っていた事などすっかり頭から消えてました。

新しい工場での仕事は思いっきり好きなように仕事をする事が出来ました。お客さんから『良くなったよ』『ありがとう』と言われる事で、自分が認められたようで嬉しくてたまりませんでした。

そのうちに、新社長(同級生)のやり方に違和感を持つようになっていました。

そんな時です、新社長が体調不良を理由に会社を抜けると言い出し、さっさと辞めてしまったのです。

社長になれるという晴れがましい想いと、経営を担うという重圧が入り交じった第二のスタートになりました。

【どこにも負けない整備】

信条に

これまで以上に技術に磨きをかけ、意気揚々と仕事に精を出していました。
あるとき、連絡の行き違いからお客さんとトラブルがおき、売り言葉に買い言葉で、『金なんかいらない!と逆ギレしてしまいました。

その頃からでしょうか、
仕事が徐々に減り始め、社員間のトラブルも増えてきました。
経営は苦労の連続でした。

支払うお金が足りなくなり「何とか仕事が来ますように・・」と朝日に向かってお祈りしたことが何度もありました。

仕事が減っていくなかで、

技術にこだわり過ぎ、思い上がっている自分に気付くことができました。
人と深く関わる事が苦手なため、ことさら人を見ようとせず、いつの間にかお客さんの気持ちを置き去りにしてしまったのではないか。
ある勉強会を通じそんな事に気付くことができました。

昔、お客さんの不安や不満をよく聴きそれに応えられたからこそ『ありがとう』『良くなったよ』という言葉をいただけたんじゃないのか?

そんな気づきから
『女性ひとりでも気軽に相談できる整備工場』という
キーワードが浮かんできたのです。

人と関わる事が苦手な私ですが、今になって思えばいろんな節目に助けてくれた方々がいた・・という事実が思い出されます。

心が崩壊しかけた新車営業時代、母の優しさと気遣いで正気を保つことが出来たこと。

整備士になるきっかけをくださった係長、
独立するとき足りない資金を貸してくれたのはあの、大嫌いな父親でした。

少ない予算の中で「何とかしようじゃないか」と工場建設に尽力してくれたGさん。

最初はブツブツ言いながらも愚痴を聞いてくれて、今では全面的に協力してくれる妻。
中学時代から目を掛けてくださった今は亡き担任のA先生や同級生のみんな。
同じ仕事をしてくれている子供達。社員のみんな。

幾ら感謝してもし足りない程の恩を受けてきたことにやっと気付くことができました。そして、お客様と腹を割って話す勇気を持とうと思うようになったのです。

このような体験から私は、【感謝と勇気】を自分の使命に決めました。
不安な気持ちや諦めたくない事など、気のすむまでお話しください。
お話しいただくことで、お客さんにとって1番いい解決方法を提供することが、これまで受けてきた恩を仕事を通してお返しすることだと思っています。

最後に、わたしからお客さんへのメッセージです。

「私の言いたいことがちゃんと伝わるかしら・・伝わらなかったら嫌だな」と不安に思っている方。

「古い車だと、よく話しも聞かないで、どうせまた適当にあしらわれるんだろうな」と諦めないでください。

諦めないで、とことん話しを聴かせてください。

そのような方に、「中西さんに出会えてよかった」と言われることを信じて、これからも日々地道な努力をしてまいります。

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